さいきん、同性婚の議論が進んでいて、自称リベラルのわたしは普通に両手をあげて賛成…しようとおもっていた。
しかし、とある保守派の議員がSNSで
「同性婚を導入すると一夫多妻などあらゆる形式の婚姻関係を認める論拠になり、それは実質、結婚制度の廃止(意訳)」*1
と発言しているのをみて、
「まったくもって、そのとおりだ」
と半ば説得されるかのように同意した。
この日からわたしは考えを改めることになる。
あたりまえ、の結婚
ちなみにわたしは結婚している。
なんの疑問も持たずに、するりと入籍した。
実家の家族と不和があったこともあって、夫の籍に入ることは自然で心地よいことのように思えたのだ。
さらに幸運なことに、義両親は自然にわたしを「むすめ」と呼び、わたしもためらいなく彼らを「おとうさん、おかあさん」と呼んだ。
婚姻に伴うさまざまな処理も、「すきな人と家族なる手続き」だとおもうと、面倒な気持ちよりも高揚感が勝った。
子どももできて、婚姻制度になんら不満はなかった。
育児をはじめると、さまざまな場面で母親で、おんなであることの些末な生きづらさに行き合い、辟易しつつも、「母」や「妻」という肩書が提供してくれる信頼を享受した。
それでも、このほんの僅かに漂う生きづらさをきっかけにわたしは社会のさまざまな課題に目を向けるようになる。
そして、その「さまざま」のうちの一つが「同性婚」に関する議論だった。
一夫多妻制、よくない?
配偶
1 添い合わせること。添わせること。
2 めあわせること。また、その人。つれあい。配偶者。
配偶(ハイグウ)とは - コトバンク
ここで冒頭の議員の発言にもどろう。
同性愛と同じく、複数人と同時に性愛関係を結ぶポリアモリー(複数愛)だって、決して自分で選んでなるものばかりではない。
だとすると、同性愛者同士が結婚できる場合、ポリアモリーでつながっている人々も結婚できて然るべきなのではないだろうか?
制度を無批判に迎合するわたし
今の制度や社会が完璧じゃないように、同性同士の結婚が実現した世界は完璧じゃない。必ず制度からとり溢れる関係がある。
それは、ポリアモリーにもとづく関係かもしれないし、あるいはもっと別の関係かもしれない。
法律を変える、という行為は線を引き直す行為に他ならない。そして、引かれた線は、多かれ少なかれ分断を生む。
さらにいえば、税金を含め、金銭的な負担が軽減され、社会的信用すら付与されうる結婚、というある種の優遇制度において、その分断はより根深いものとして社会に存在する。
だからこそ、線を引き直すことだけではなく、線をなくすことだって議論されるべきなのだ。
旧来的な制度設計では、多様性を内包できない
ごく自然に結婚をしたわたしにとって婚姻制度は疑うまでもなく当たり前のものだった。
だからこそ、「結婚」が実際にはごく限られた関係の人間同士のみが許された、ある種特権的な制度である、という事実が、まず、わたしを打ちのめした。
そして、つぎに、わたしの考える多様性が、自分が見えるごく限られた範囲の狭小なものでしかないこと、それでいて、「わたしには多様性を考える見識がある」と思っていたことが。
もちろん、冒頭の議員は、同性婚を認めると、他のあらゆる関係において、婚姻関係を認める論拠になるので、認めるべきではない、ということを言っていたのだが、一方で現行の異性愛に基づいた婚姻が認められる論拠だって、実際は曖昧だ。
出産、育児を考えると、結婚は便利なものだけれど、現在、結婚に必ずしも育児が付随するわけではなくなっているし、逆に出産、育児をする、においてかならずしも結婚が必要なわけではないということを多くの人が知っている。
結婚を家族になりたい他者同士が家族になる制度、として捉えるなら、今ある結婚制度の形式にとらわれることなく、出来る限り多くの人が、家族になれる道を探す必要があるだろう。
わたしの慢心、つぎはぎのリベラルから一歩をふみだす
旧来的な結婚制度を無批判に受け入れ、「同性婚が認められること」を多様性のある社会へのひとつの答え、として捉えていたわたしは、思いがけぬ方向から、自分の浅学と浅慮を身につまされることになった。
正直にいうと、わたしは最初に冒頭の発言を見たとき、同性婚と一夫多妻制を同列に語るなんて!!と憤ったのだ。
しかし、怒りが収まり冷静になる中で、自分の中にある、一夫多妻的な関係に対する差別感情を自覚した。
同性愛もポリアモリーも経験したことがないわたしがかれらを理解できることは決してないだろう。
だが、それでも「同じ立場に立つこと」はできる。
ただ世相に流されて「賛成」してリベラルぶっても、自分の中にある差別感情に気を配れなければ、結局誰かを傷つける結果に終わってしまうだろう。
自分が何を、なぜ、どうのように差別しているのかをまず自覚すること、これはわたしにとって大きな一歩となったのだ(もちろん、まだまだ向き合わなければならない差別感情はわたしの中に存在するけれど)。
だから、
松浦、サンキューな。